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マニラのスラム街トンド地区で4ヶ月間生活して驚いた14のこと

スラム街での生活はどんなものなの?

かなり多くの人がそう思っていることでしょう。

思ったより僕らと変わらないですし、生活だけなら僕らでもできることは確かです。もちろん圧倒的に違うものもあります。

この記事では、マニラのスラム街に4ヶ月滞在した僕が驚いたこと14個を通してスラム街での生活がどんなものかを紹介します。

記事を読み終える頃には、なんとなくかもしれませんが、スラムという場所をイメージできるのではと思います。

  • この記事の疑問
    スラム街での生活はどんな感じ?
  • 答え
    日本人でも住めるけど、一生は無理だと思う。

話を始める前に

2008年くらいの話です。当時の僕は国際協力などに興味があり、東南アジアではフィリピンだろうということで訪問。無茶な旅を行い、当時ムスリムのコミュニティがあり、さらに臓器売買で有名だったバセコという場所へ行きました。

生きるために腎臓を売るフィリピンスラムの住人たち
【4月22日 AFP】フィリピン・マニラ湾の波止場にあるスラム街バセコ(Baseco)に住む男たちは、住人としての2つの目印--ギャングであることを示す「入れ墨」または腎臓を売ったことを示す「傷あと」のいずれかを持っている。

その際に、とある家族と仲良くなりました。その後、卒業論文の調査の滞在費を抑えるため、その家族の家に夏期休暇の2ヶ月間ホームステイを2回行いました(大学3回生の8,9月と4回生の8,9月)。正直言って劣悪な環境でしたが、若い頃にしかできない楽しい体験でした。

その家族への連絡手段は何もなかったので、向こうはまさか中期間泊まるなんてことも思っていないわけですが、突然訪問して、「久しぶり!!今日から2ヶ月滞在してもいい?」てな感じで滞在しました。

とても残念なことなのですが、当時はクラウドなんていうサービスは知らず、というか有名ではなかったので、写真はCD-romかDVDに保存する程度でした。そうした記録媒体も引っ越しや掃除などでどこに行ったのかわかりません。そして、かなり多くの写真がなくなりました。

運よく、滞在時に発生した大火災の写真だけfacebookに保存していたらしく、久しぶりに昔の写真を見返していたら出て来たので、懐かしいなぁ〜と思い、スラム街で生活して驚いたことをブログに書くことにしました。

バセコヘの行き方・アクセス

僕が生活した場所は、マニラ湾を拡張する際に、マニラ湾を深くするため土砂を掘削し、そのいらなくなった土砂がマニラ湾の周辺に放置されました。

その放置された土砂に人が住みだしたということでした。

正確に言うとトンドではなく、パシグ川を挟んだ南にありバセコと呼ばれていました。バセコはムスリムのコミュニティがあったり、臓器売買で有名なスラムですが、知り合いは皆そこはトンドの一部だよと言っていたので、トンドとしておきます。

あいこと
あいこと

一般的には、トンドはパシグ川より北にあるエリアだよ。手紙送るときはTONDO BASECOと送っていたので、一応トンドだとしておきます。

バセコヘ行く方法は難しくないですが、10年ほど前の当時はタクシーでは行けませんでした。タクシードライバーが嫌がります。

空港からだと、タクシーかジープでバクラランとかロートンダまで行って、タフトアベニュー沿いを走るジープに乗って、ペドロヒルで下車、その辺りがエルミタやマラテという地域です。その辺りで、Pier15やPier Southと書かれたジープニーに乗ります。(ジープは安全ですよ。他人がいますから。でも、日本人は見た目や雰囲気でわかりますから、気をつけましょう。あと、今も同様の路線があるのかは不明です。)

Anda Circleというイントラムロスの西側にある円形交差点で降ります。

Pier15、ピエール15と呼ばれています。Pier Southだったかもしれません。

空港からタクシーで行く場合も、ここで降りてトライシクルに乗り換えましょう。エンダサークルで理解されることはほぼありません。ロハス通りを真っ直ぐ進んで、トンドへ行って!と言いましょう。エンダサークルに差し掛かったらストップ!と言えばいいだけです。エンダサークルは、イントラムロスの南西側の入口なので城壁と門が見えるはずです。あと、ゴルフ場。

円形交差点の100メートルくらいパシグ側(北側)よりにトライシクル乗り場がありますので、並んでトライシクルに乗りましょう。

面倒だったらその辺にあるトライシクルに「スペシャル、プリーズ」とか言えば40ペソでバセコヘ行けます。並んだ場合は7ペソです。いずれも10年前の価格で、今はどうなっているのか知りません。あとは、下車したいタイミングでドライバーの肩を叩くとか、天井を叩くとかすれば降りれます。もしくは「パラ」とか「パラポ」言えば良いです。

バセコから外へ出るにもトライシクルです。Pier15行きとディビソリア行きの2系統が走っています(全体で、バセコ、ディビソリア、ピエール15を三角に就航しています)。Pier15行きは上述したAnda Circle付近のトライシクル乗り場へ行きます。ディビソリア行きはマニラ最大の市場の一つであるディビソリアへ行きます。「ソリア」と呼ばれているので、行きたいならドライバーに「ソリア?」と聞きましょう。

まぁ、10年も前の話なので今とは違うと思いますが・・・。色々驚くことは多かったです。思い出せるだけ思い出そうと思います。

1. 生活に必要な水を買ってくる必要がある

水道がついている家もありますが、ない家がほとんどです。そうなると、水道がついている家から水を買ってこなければなりません。毎日、近所の水道がある家に行ってはお金を払って、20リットルくらいあるタンクに水を入れていました。

しかも、水はちょろちょろとしか出てこないので、タンクに貯まるまで時間がものすごくかかるのですが、ちゃんと見張っていないと他の人にホースを取られてしまうため、水が貯まるまでその場にいなければならず時間がもったいないと感じました。

2. トイレの仕組みが謎

トイレはありました。陶器でできた便器があり、用を足した後、先ほど買って来た水で流すという仕組みでした。

ただ、流したものがどこに行っているのかは謎でした。ホストファミリーは「各家の地中にタンクがあって、半永久的に貯められる」ということを言っていましたが、そんな仕組みは存在しないと思うので本当に謎でした。

あいこと
あいこと

永久に溜められるタンクはこの世に存在しないでしょう。

それに半永久ってことは、永久じゃないってことでしょ。

どうなってるんだろう?

いや、現地の人は、どう理解しているんだろう?

もし、本当に地中にタンクがあるのなら、あれから10年経った今頃、溢れ出て来ているのでは?と気になります。

3. インド人高利貸しが取り立てに来る

毎朝のように、インド人風の男たちが各家を回っていました。そして、その男たちが来ると、ホストファミリーだけでなく、近所の人もいなくなりました。

後日、そのことをホストファミリーに聞いたところ「それはムンバイと呼ばれる高利貸しで、このあたりの人はみんな金を借りているので取り立てに来ているんだよ。でも、みんな支払いできないので、彼らが来たら裏口から逃げるんだよ」とのこと(他のブログではブンバイとかボンバイと紹介されているので、そっちの方が正しいのかもしれません)。

貸しているのはお金だけでなく、扇風機とか冷蔵庫とか、そういう物品を1日単位で貸し出すこともしているとのことでした。金額を聞いたけど、10日くらい扇風機を我慢すれば、ショッピングモールで新品の扇風機買えるんじゃないの?というくらい高い価格で貸し出していました。

シャンプーや歯磨き粉でさえ1回分に小分けになったものしか買えない人が多いので、扇風機を日貸しするというビジネスは成功していたようです。

そのムンバイと呼ばれる男たちと話をしたことがあるのですが、インド人風ではなく、インド人だそうです。そして、「お金を回収するのはすごく難しいし、この前は取り立てに行った別の仲間が刺されたんだ」と厳しい仕事であることを教えてもらいました。

4. ゴミをポイ捨てする習慣

これは住む前から感じていたことですが、なんのためらいもなくゴミをポイ捨てします。

サリサリストアという個人商店がいたるところにあるのですが、そこで子どもがお菓子を買ったとします。袋を開けて、中身は食べますが、袋はその場に捨てるのです。「街全体がゴミ箱です」と言っているかのように、平然と道にポイ捨てします。道の端に捨てるとかではなく、今いるその場で手からゴミを離すという感じです。

ゴミを捨てているという感覚はないのだと思います。不要なものなので、手から離す・落とすみたいな感じです。ゴミが地面に落ちようが、風に飛ばされて行こうが、手から離れたものなので興味はなし!そんな感じなのです。

とは言っても、僕もそれに慣れてくると普通のこととして、ゴミをポイ捨てしていました。だって、ゴミをどこに持っていけばいいのかわからなかったので。

そんななので地区内はゴミだらけです。バセコはマニラ湾に面しているので、海水浴に行くことも多かったのですが、海の中を泳いでいるというより、ゴミの中を漂っていると表現した方が良いくらいにゴミだらけです。

ある日の海水浴の最中に、海中のゴミによって右足のくるぶし辺りに擦り傷ができる出来事があったのですが、その日から右足が膨れあがり、歩きにくくなりました。傷口から細菌に感染して化膿したのだと思います。

毎日、ホストファミリーのお母さんが、飲み薬と思われる錠剤を砕いて、傷口に塗ってくれました。そのおかげで1週間ほどで治りました。でも、なんの薬だったのかは今でも知りません。

おそらく、抗生物質の飲み薬を砕いて、傷口に塗っていたのだと思います。だったら、飲んだ方が効いたのでは・・・。

5. やたら治療が必要な病気の家族がいる?

スラム街でずっと生活しているとスラム街内でも僕の存在の噂が広まるみたいで、よく友人の叔母だとか、友人の親戚だという人がやって来ました。そして、いつもこんな話をしに来ました。

導入:「俺は、あいつ(ホストファミリーの誰か)が小さい頃からずっと世話をしてやったんだ。」

その後、いろいろ話をする。そして、

本題:「今、俺の母親が病気で〇〇ペソ必要なんだ、返すから貸してくれないか?(子が病気のパターンもある)」

僕は学生で、宿泊費を抑えるためにここに滞在しているのですから、貸せませんが、「今いくらあるのか?」「生活を切り詰めたら〇〇ペソくらい貸せるんじゃないのか?」「いついつまでに返すから大丈夫」などとしつこいので、2000円ほどを2度貸したことがありました。もちろんお金が返ってくることはありませんでした。

やたら治療が必要な病気の家族がいるもんだなぁ〜と思いながらも、きっと病気の家族なんていなくて、貸したお金は生活費に消えてるんだろうなと悟りました。

6. 犬をガスバーナで炙り食べる

ホストファミリーの子が言ってたのですが、普段のご飯は米だけだそうです。おかずはないそうです。

僕がいる期間は毎日おかずがあって、美味しいご飯が食べられると喜びながら言ってました。ホストファミリーのお母さんには宿代としてそれなりにお金を渡していましたので、その分で良い食事を提供してくれていたのだと思います。

その話を聞いたとき、「米だけで成長できるんだろうか?」、「だから、この子達は年齢の割に小さいのか?」などなど感じた出来事でした。

地域全体が貧しい人が多いので、みんなそういう食生活だったと思います。

それもあってなのか、週に1回くらいは、バーナーで焼かれる野良犬を見ました。もちろん食べるためです。亡くなってからバーナーで焼いているわけですが、やっぱり犬を食べる習慣のない僕からすると残酷だなと思いました。

あいこと
あいこと

鶏のたたきみたいな感じに調理されたのを食べたのですが、薬味とソースと肉がベストマッチでおいしかったです。

7. 現地の人は交通手段について詳しくない

個人的に思っていることとしてジープニーが一番安全な乗り物だと思っています。ジープニーはフィリピンならどこにでもあるバスなのですが、この乗り物は乗合なので、つまり他人と一緒に乗車します。なのでぼったくられる心配はありません。

そして、当時はマニラの色々な場所へジープニーやバスで出かけました。なので路線マップも描けるほどジープニー・バス・FXタクシー偏差値は上がりました。

もちろん初めの頃は右も左もわからず、乗り始めたジープニーですが、近所の人たちもほとんど知らないようでした。知っているのは家から子どもの通う学校への行き方、家からディビソリアという大きな市場への行き方くらい。

なので、ポートエリアからエルミタ近くのペドロヒル通りまでの行き方を教えてもらったのですが、結局教えられた道順は、PIER15→ロートンで乗り換え→ペドロヒルでした。でも、実際にはPIER15→ペドロヒルという乗り換えなしで行けるジープニーがありました。

他にも、バスに乗った方がロートンからフィルコアは早いし安いのに、ジープニーでの行き方しか知らなかったりと、現地の人のジープニー・バス偏差値は観光客程度のものでした。

お金を支払うとき「バヤッド」と言って支払うのですが、僕はこの言葉が苦手で、フィリピン人に通じないことが多かったです。毎晩のようにホストファミリーの子と「バヤッド」の発音練習をしていました。

8. 電線が家庭用延長コードなので火災がよく起きる

家が密集していて、基本木造です。そして、電柱を見てみると、家の中で使われるような延長コードがたこ足配線で繋がり家まで引かれています。日本の電線とは全然違います。あれはどう見ても家庭用の延長コードです。

すると、この電線の漏電などが原因となって火災がよく起こるそうです。滞在している家の周辺でもすでに1000軒くらいが消失した大火災が2回起きたとか言っていました(そのためこのエリアにはNGOが建設した長屋のような住宅が数え切れないほど建設されています)。

そして、僕の滞在中にも火災が起きました。かなり大きな火事で日本でもニュースになっていたそうなので、それほど大きな火災だったのだと思います。

マニラのスラム街の火災

この火災で500軒の家が消失したほどの大きな火災でした。

歩いて10分くらいの場所で起きた火災だったので、野次馬の1人として見物に行きました。そして、全く何も考えずに、「今、肉があれば、あそこでBBQできるのにね〜」と友人と笑っていました。

そのときは気づかなかったのですが、その僕の横にこのような方がいました。

スラム火災で祈る被災者

キリストの絵を持って、祈っている方でした。おそらく、火事の被災者でしょう。家を失くすということが、どんなに辛いことかを考えもせず、僕はこの人の隣で「あそこでBBQができる」などとバカなことを言っていたのです。

でも、この写真に気づいたのは日本に帰ってからのことでした。僕が持っていた電池式のデジカメは、夜になると何を撮っているのかがわからないくらいに何も見えません。それに、おそらくこの写真は僕ではなく、デジカメを渡していた他の人が撮影したんだと思います。僕は、建設中の中学校の柱に登って、降りられなくなった記憶があるので、デジカメは他の人に預けていました。

それでも、本当に申し訳ないことをしたと思っています。家を失ったわけです。命や家族の次に大事な家をです。

翌日、消火された現場へホストファミリーの子たち(小学5年生くらい)と行きました。

火災後のスラム

家はさっぱりなくなっていました。

火災後のスラム陣地取り

自分の家のテリトリーを主張するために、ロープで四角い枠が作られていました。

韓国人の家族(母、小学生くらいの息子と娘の3名)が被災の様子を見に来ていました。少しだけ話したのですが、「ただの観光よりも、こうした世界があることを自分の子どもに知ってほしい」というようなことを話していました。勇気ある行動だなと感心しました。

そして、「見せ物じゃないのに、子どもたちに見せようとしている自分に対して偽善感も感じてすごく葛藤した」ことも話していました。でも、彼女の一家は写真を撮ることもなく、目に焼き付けるようにこの光景を見ていて、うまく言えませんが、しっかり考えた行動だと思いました。

一方の僕は写真を撮る勇気がなかったため、ホストファミリーの子にカメラを渡して写真を撮ってもらっていました。そして、その一部が今みなさんが見た写真です。

このマニラバセコ地区の火災は日本でも放送されていました。

スラム街で500棟全焼 フィリピン|日テレNEWS24
フィリピン・マニラのスラム街・バセコで16日、大規模な火災が発生して約500棟が全焼し、5歳の女児が死亡、約4000人が避難生活をしている。この地域は住宅が密集していて火が燃え広がりやすく、04年の火災では2万5000人が家をなくしている。

9. もちろん火事場泥棒もいる

火事が発生すると、火事場泥棒も発生します。

火災があった日、野次馬としていち早く現場に行ったホストファミリーの子やその仲間が全然帰ってきませんでした。家族は「火事に巻き込まれたのでは?」と心配していると、何かを抱えて帰ってきました。

スラム火災の戦利品

火事で人が逃げ出した家に侵入し、その家に飼われていたひよこを盗んできたのでした。このひよこたちは、その後大きくなり、しっかり食べられたそうです。

10. 亡くなる人が多い気がする

滞在の始めの方に、近所にすごく親切な好青年が住んでいました。夜飲むときとか、誘ってよく一緒に飲んでいました。銀行でセキュリティーガードマンとして働いているとのことでした。でも、しばらくするとパッタリと会うことはなくなりました。

ある日、その青年の家族に会ったので、その青年のことを聞いてみると、働いていた銀行に銀行強盗が入った際に、職務を全うして亡くなったとのことでした。

また、別の日、友人の妹と地面に絵を描いたり、縄跳びをして遊んでいると、突然手を引っ張って、5分ほど歩いた妹の友人の家に行きました。

すると、そこには、棺が置かれていて、妹の友達だという男の子が横になっていました。デング熱で亡くなくなったそうでした。

他にも、破傷風で亡くなったり、車に轢かれて亡くなったり、僕は5人くらい亡くなった人を見ました。

11. 子どもが多い

スラムや貧困層の家には子どもが多いというのはよく聞く話だと思います。

本当に多かったです。

はす向かいに、いつも真っ暗な家がありました。なぜ真っ暗かといえば、電気がないから真っ暗なんです。ひと目で、あの家はより貧しいに違いないとわかる家でしたが、なんと8人も子どもがいました。

僕が滞在していたときに長女が12才とのことでしたが、小学校には行っていませんでした(NGOが行っている学習教室には通学していましたが、文字はうまく読めず、ほぼ書けず、英語も話せませんでした)。そのため、子どもたちの中で読み書きできる子がいないということでした。

で、ある日、向かいの家のおばさんが、赤ちゃんを抱いていました。「あれ?おばちゃんの赤ちゃん?」と思いながら話を聞くと、たった今はす向かいの家のお母さんが産んだ赤ちゃんとのことでした。つまり9人目です。一番驚いたのは、家で出産したということでした。

家なんてチョー狭く5畳くらいしかない家です。でも、高度利用や立地適正化計画を先取りしたかのように無駄に高層ではありました。

僕が滞在している家から音が聞こえるくらいの距離の家なんですけど、何も気づきませんでした。いきなり家族が1人増えた一家を見た感じです。

人があっけなく亡くなることにも衝撃でしたが、人が突然誕生することにも驚きました。

向かいのおばさんの家にも6名くらい子どもがいましたので、近所だけで子どもの数は尋常じゃないほどいました。

バセコの小学校に何度か訪問したことがありますが、その教室は児童でぎゅうぎゅう詰めだし、午前と午後に分けて登下校させないと教室も教員も足りないなど、本当に子どもが多かったです。しかも、感覚的には80%の児童は授業を聞いていない。

発展途上国でさえ少子化が始まるというのに、すごい場所だなぁと思ったものです。

逆に、子どもが少ない家は比較的裕福な印象を受けました。右隣の家は娘さん1人だけでしたが、室内の床にはタイルが敷いてあり冷房も冷蔵庫もありました。もちろんカラオケセットも。

その家にお呼ばれされると必ずケーキか果物でおもてなしされていましたし、娘さんは最寄りの小学校ではなく遠いけど学生数が少ない小学校へ行ってました。

そのお母さんは、「このあたりの子と娘に接点を持ってほしくない」と言っていました。まぁ、この家と他の家とでは文化やマナーが全然違うだろうなと思いました。あの子、今どうしてるんだろう?

12. 病院が無料だけど、野戦病院みたい

僕は、この滞在で2週間に1回のペースで体調を崩しました。高熱が止まらず、いてもたっってもいられないような頭痛と悪寒で、ホストファミリーのお母さんが病院に連れて行ってくれました。

普通、日本人のような先進国の人がフィリピンで病気になり病院に行く場合、私立病院へ行くそうです。そして、めちゃくちゃ値段が高いそうです。でも、僕はそんなことは知りません。なので、近所にある公立の病院に行きました。

Gat andres bonifacio memorial medical centerという病院で、この病院にはかなりお世話になりました。

診察した医師には「この病院は、この地区に住む貧しい人向けの病院だから、本来は日本人の君は来てはダメだけど、学生でお金がないということだから、今回だけ特別だよ」と言って診察してくれました。診察券まで作ってもらいました。

めちゃくちゃ汚い病院で、この病院に滞在するだけで伝染病にかかってしまうのではと思うほどでしたが、点滴と研修中の看護学生のおかげで元気になりました。夜の時間帯は看護学生ばかりで、こうした病院で研修をしているんだと思います。

病院では、僕はコンタクトレンズを外していたので、あまり周りの様子が見えませんでした。ベッドで点滴を受けながら、「そういえば、隣のベッドの人全然動かなないなぁ〜」と横のおじさんを見て思いました。

1階の受付エリアにまでベッドが並べられていて、僕はその受付エリアからもハミ出て廊下でした。ベッドもすごく小さく、救急車に積んでいるストレッチャーくらいの大きさです。

その僕のベッドの横、手に届くところに、おじさんのベッドがありました。

あいこと
あいこと

このおじさん、全然動いてない・・・。

お母さんが「その人は先ほど亡くなったらしいよ」と教えてくれました。亡くなったけど、とりあえずそこに放置していなければならないほど患者が多かったです。

さらに、病院から帰るときに、頭を撃たれた人が担ぎ込まれてきたりと、「ああ、野戦病院みたい」と思いました。

「衛生兵!!!」という声が聞こえてきそうです。

そして、診察料とかは無料でした。薬はお金を払った気がしますが安かった記憶があります。

13. 現地の人が飲む水を飲めない

実は、大学3回生のときの滞在では、現地の人と同じ水を飲んでいました。水道がついている家から購入した水です。つまり水道水です。そのときは2ヶ月の滞在中に水によって体調が壊れることはありませんでした。なので、飲み水を買うということはしたこともありませんでした。これは日本にいるときも同様で、ミネラルウォーターを買ったことさえありませんでした。

しかし、大学4回生の滞在初日に、水を飲んだ直後に吐き気を催し下痢になりました。そのとき、アルコール度数の高い酒を飲んだ直後だったので、それが原因だと思っていたのですが、その際に出されたチェイサーの水が原因のようでした。

一晩中トイレで籠城戦を展開し、翌朝はクタクタでした。

でも、前回は飲んでも問題なかったのですから、その後も飲んでいましたが、現地の人が飲むのと同じ水を飲むとお腹を壊しました。さらに疲れも溜まりだした頃には高熱まで出るようになり、Gat andres bonifacio memorial medical centerへ行く事態になりました。

薄々「飲み水が原因だろう」と思っていたので、飲料用の水を購入することになりました。ウォーターサーバーに設置されているボトルくらいの大きさの飲料水を購入して、必ずその水を飲むようにしたことで下痢は無くなりました。

大学3回生と4回生の1年の間に、なぜ現地の水が飲めなくなったのかは謎です。

14. 僕だけが蚊に刺される

寝るときは、蚊帳の中で家族全員が雑魚寝するのですが、蚊帳もずっと使い続けているので蚊が余裕で入ってこれる大きな穴が空いています。にもかかわらず、ホストファミリーは誰も蚊に刺されません。(なんなら、でっかいゴキブリも蚊帳の中に入ってきます)

一方の僕は蚊にたくさん刺されました。虫除けリングをしていましたが、リングのすぐ横を刺されていたりと効果がありませんでした。日本人の血がそんなに美味しかったのでしょうか?

フィリピンでは、オフローションという蚊除けのスキンクリームを使うことが一般的でしたので、そのオフローションをよく使っていましたが、オフローションを使うと次の日体が重たく感じていたので、僕はあまり好きではなかったです。

しかも、僕の場合、体のほぼ全ての箇所をまんべんなく刺されるので、ほぼ全ての箇所に塗る必要がありました。

さらに、オフローションは顔には塗れません。そうなると、オフローションを使った日には、オフローションが塗られていない顔だけを刺しにくるのです。まぶた周辺を刺された日は、まぶたが腫れて別人の顔になってしまい、重大な病気にでも感染したのかと思い焦りました(数時間後には元どおりの顔に戻っていました)。

終わりに

そんな感じで、この合計4ヶ月には、ここに書ききれないほどの面白い出来事がたくさんありました。もちろん、スラム街なので書けない内容もいっぱいあります。

例えば・・・。

  • 犯人を追いかけていた警官が、運悪く犯人の逃走経路から出てきた僕に銃を突きつけるという事件。ここで人生終わりなんだと思いました。
  • 大火災の2日後の夜、家に強盗が押し入ってきて屋根裏で寝ていた僕やホストファミリーの子は窓から脱出。その通報のためにバランガイという地域の政府みたいなオフィスまで走ったこと。
  • ホストファミリーのお母さんが突然ブチギレて近所の人たちに暴力を振るって逮捕されたそうで、警察署の牢屋で面会したこと。
  • ホストファミリーの子の友達が小学校も行かずに、ずっと住み込みで家事手伝いをしていたこと。

犯罪とか人間関係とか、日本の都市とはまた違う様々なことがありました。

それでも、僕はホストファミリーに守られていたこともあり、日本人であっても普通に住めました。大学生ならなおのこと問題ないと思います。

僕の友人は、ほぼ同時期に、徒歩5分の場所に1人で家を借りて住んでいましたので、もっとすごかったと思います(月500ペソ程度で借りていたので、日本円だと1000円くらいです)。

他にもNPO職員としてスラムに住んでいる人もかなりの数いますので、スラムで生活する日本人はめずらしいわけではありません。そういう人の方が、さまざまな体験エピソードを持っているはずです。

お世話になったホストファミリーとはほとんど連絡をとっていません。ホストファミリーの子が去年日本に観光に来たので会ったくらいです。米しか食べてないからなのか、当時とそんなに変わっておらず背丈が小さく、「えっ?まだ中学生?」と思うほどでしたが、ちゃんと喋っていたので大人になったようでした。

再会により、すごく懐かしい日々を思い出しましたが、もう一度やるかと言われると絶対やりません(一泊ならやるかもしれませんが・・・)。

スラム街に住む人たちのいい文化も知りましたが、悪い文化もたくさん知ったからです(諦めとか、その場しのぎとか、などなど)。

フィリピンから帰国する飛行機の中で、スラム街に住む人たちに失礼ですが、僕はこう思いました。

あいこと
あいこと

僕は短期間しか滞在しなかったから非日常を味わえ、楽しかったんだろう。

でも、あの生活を一生やるのは無理だ。

よくこんなことを言う人がいます。

貧困層の人には精神的な幸せがあるとか。日本人は量的な幸せが、スラムの人は質的な幸せがうんぬんかんぬんとか。

その話は一面でしかありません。

問題はもっと複雑であり、そして圧倒的なのです。

もちろん、僕の見てきたことも一面でしかありません。

おしまい。